「令和」を迎え、女子プロゴルフツアーは
ますます選手層も厚くなり
その中でも20歳前後の若手の活躍が目立つ
より華やかなフィールドとなった。
そこで気になった。
平成元年(1989年)の女子ツアーは
どんな感じだったのだろう?
ちょっと振り返ってみたいと思う。
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1989年の試合数は39試合、
現在と変わらない。
以外といえば以外、盛況だったんだね。
♦まずは、その39試合のうち36試合に出場して
5勝を挙げた選手から紹介したい。
その選手とは、
台湾籍の涂阿玉(ト・アギョク)である。
台湾仕込みのパンチショットを駆使し、
(台湾は風が強いコースが多いため、それに負けない
体重の乗った低い弾道のショットを得意としていた)
また、試合最終日は必ずと言っていいほど
168センチ、55キロのスリムな体形をピンク系の上下
(下はパンタロンだったな・・)に身を包み
あざやかに優勝をさらっていったため
「ピンクパンサー」と呼ばれていたんですよ。
80年代はまさに敵なしの状況でした。
1981年に日本ツアーに本格参戦し、
82年、83年、86年には年間9勝をあげ、
この年(1989年)以外にも82年~86年、91年と
7度の賞金王に輝いています(通算58勝)。
まあ、それは強い選手でした。
涂阿玉の活躍はその当時層が薄かったからなの・・?
とんでもない!
凄い選手がゴロゴロいたんです。
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次に紹介する選手は
32試合に出て、涂阿玉を上回る6勝をあげた
小林浩美です。
現在の日本女子プロゴルフ協会会長ですね。
ソフトボール出身で170センチの長身を活かした
飛距離が持ち味でした。
いつでもピタッと決まるフィニッシュが
特に私の印象に残っています。
翌年から米ツアーに参戦、
優勝を達成し、
以降米ツアー通算5勝をあげています。
(日本通算10勝)。
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まだまだいますよ!
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日米を股にかけ活躍した
国内44勝、米ツアー17勝、
87年の米ツアー賞金王のレジェンド、
そう、岡本綾子です。
1989年は、日本で9試合に出場し
優勝は2回(2位2回、3位1回、4位1回)
さすがですね。
この年は、米ツアーでも1勝を挙げ、
メジャーの全米女子プロでは2位に入っています。
本当に凄い選手でした。
日本ツアー18勝、米ツアー1勝、
現在はツアーのレポーターとしても活躍されている
平瀬真由美も忘れてはいけません。
1989年当時は、若干18歳。
前年にプロ転向した平瀬はこの年3勝をあげています。
‘’ニュースター誕生‘’と騒がれました。
93年、94年と2年続けて賞金王に輝き、
96年から米ツアーに参戦、
同年、東レジャパンクイーンズで
米ツアー初優勝を飾っています。
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複数回優勝を遂げた
選手はまだまだいます。
日本ツアー41勝、
森口祐子です。
トーナメントの解説者としてよく目にしますね。
この年、出場26試合で2勝をあげました。
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同じくこの年2勝、通算20勝の
塩谷育代、
彼女も解説者として活躍されていますね。
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男子ゴルフのレジェンド、中島常幸を実兄にもつ
中島恵利華も同じく2勝(通算4勝)をあげています。
実力もルックスも兼ね備えた
元祖アイドルゴルファーです。
病気により早くにツアーから撤退、
将来が大いに期待されただけに
本当に残念だった。
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このほかにも、
高須愛子が2勝(通算17勝)。
日陰温子が1勝 (通算18勝)。
山崎千佳代が1勝(通算8勝)など、
平成元年は、
そうそうたるメンバーが覇を競った年でした。
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3勝した平瀬は18歳、
今の黄金世代も真っ青の活躍です。
中島は24歳、塩谷と山崎は25歳でした。
それより驚くのが、当時、岡本と高須は37歳、
日陰は35歳、涂と森口が33歳だったこと。
ジュニアゴルフの環境がまだ整っていないころです、
平瀬の例は別として、まだまだベテランがツアーを
牽引していた時代なんですね。
今と違って、ゴルフ以外じゃなかなか稼げない時代、
プロ根性とは、1円でも多く稼ぐこと。
みなそれぞれに鍛え、積み上げてきた技術をもち
強烈なライバル心を胸に秘め、
コースに出ていった女戦士たち、
そこはまぎれもなく女たちの戦場でした。
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