脊柱管狭窄症のため、腰が折れ曲がり、時折
クラブを杖代わりにコースを歩くジャンボを
見るのは辛い。
全盛期のジャンボを知るだけに、
【もういいんじゃないの】と
思ってしまうのは、私だけではないだろう。
圧倒的な飛距離と、小技の上手さは追随を
許さなかった。
日本のゴルフのスタンダードが変わった。
キャリア半ばでは、肘や肩の故障、
パターイップスに罹りながらも、
日本ゴルフツアーで通算94勝、賞金王12回、
2010年には世界ゴルフ殿堂入り、
華々しい経歴である。
66歳のとき、つるやオープン初日に62を叩き出し、
レギュラーツアー史上初のエージシュートを達成、
まさに生ける伝説のゴルファーである。
イーグルやバーディを取った時の、
どうだと言わんばかりの、コブラポーズ。
短髪で、原色系の派手なシャツ、
ヴェルサーチの3タックパンツ、
むしろ、M・Cハマーが穿いていた
サルエルパンツのようだった。
横柄な態度や言動、ルール違反で、
マスコミや世間から
叩かれることもあった。
今じゃ、考えられないが、
ティーグラウンドで、
たばこを吹かしているジャンボの姿を
テレビで何度も見たものだ。
強いから、勝っているから、
誰も諫めることが出来なかった。
まさにお山の大将だった。
時に眉をひそめてしまうゴルフ界の
アンタッチャブルな存在だったのだ。
しかし、ジャンボが登場したことによって
一気にゴルフ界が盛り上がり、
プロゴルファーの社会的地位を高めたこと、
果たした多くの功績を否定するものではない。
自身や兄弟(建夫、直道)や飯合肇、東聡、
後輩のプロゴルファーたちの指導、育成にも
熱心に携わった。
ジャンボはクラブに対する造詣も深く、
P/S(ピッチングサンド)の開発や
ウェッジのフェース面のノンメッキ、
アイアンのカーボンシャフト、
パター上部の白いサイトラインなど積極的に取りいれ、
以降のゴルファーたちに大きな影響と
恩恵を授けたことも忘れてはならないだろう。
日本では、敵なしの強さだったが、
マスコミには、【内弁慶】と揶揄されたように
海外ではこれといった成績をあげることは出来なかった。
知っている限りの英単語を並べ、身振り手振りで、
外国人選手の中に交わっていった青木功とは対照的に、
シャイで、外国人、英語コンプレックスがあったジャンボは、
あの大きな体を小さくして、借りてきた猫のように、
口の端に小さく笑みを浮かべるだけだった。
招待されたから仕方なく行っただけで、本人は
外国など行きたくなかったのだと思う。
ジャンボは、見かけとは違い、小心で、
ガラスの心の繊細すぎる天才ゴルファーなのだ。
ジャンボが最後に勝ったのが、2002年の全日空オープン、
もう15年も前の事だ。ここ3年は一度も予選を通っていない。
昨年は12試合に出場し、うち9試合で途中棄権。
あまりに棄権が多いジャンボに対し、
永久シード権の濫用だと非難する声があがっているが、
それは、違う。
正当な権利の正当な行使だと私は思う。
シニアツアーには出ないと公言しているジャンボ、
誰にも譲れない彼の強烈なプライドだろう。
私生活では、05年に多額の負債を抱え、
民事再生法の適用申請をしている。
ゴルフ場開発が一つの原因だったと言われているが。
その翌年には、40年連れ沿った妻とも離婚。
人生はどう転ぶか誰も分からない。
何が、人生を分けるのか?
今や、日本ゴルフツアー機構の会長として
精力的に活動する青木をみて
ジャンボは、今、何を思うだろう?
今年の1月に、70歳を迎えたジャンボ、
「今年結果が出ないようならクラブを置くだろう」と語り、
あらゆるメディアの耳目を集めている。
一見すると、大胆で豪快、横柄にも見えがちだが、
実際のジャンボは人情味に溢れ、愛すべき人間だという。
孤高を保ち、気丈に振る舞うことで、
自身を維持してきたこのところの数年は
どんなにか屈辱だったことだろう。
誰に、何と言われようと、ジャンボはゴルフを
愛しているのだろう。
自分の場所はゴルフ場にしかないことを。
すでに、ジャンボは潮時を悟っているはずだ。
我々は、最後の日まで、
偉大なゴルファーを
静かに見守るだけなのだ。